統合失調症のケアマネジャー

人生の大半をメンタルヘルスに費やしてきた男性の経験談

ユヴァル・ノア・ハラリ 著 「21lessons」を読んで。

こんにちは。今日は、「サピエンス全史」や「ホモ・デウス」等の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ 著 の「21lessons」を読んだので、その感想を書いていきたいと思います。

 

①世界は「物語」で出来ている。

この著書は、非常に難解な部分もあり、僕自身の解釈で著者の意図が完全に掴めているか不確かながら、勇気をもって大胆にこの書籍のエッセンスを抽出してみたいと思います。今まで、人類の歴史は主に宗教という「物語」を信者達が信じて世界は回っていたという事が、まず第一に言える事です。ユダヤ教にはユダヤ教の物語が、キリスト教にはキリスト教の物語が、イスラム教にはイスラム教の物語があり、その物語をそれぞれ信じる事で、モラルや、コミュニティの結束、そして、人々が共に、協力する事を容易にさせた、つまり、それぞれの信じる共同幻想である「物語」を信じる事で、人類は歴史を築いてきた、とハラリさんは言います。

 

②歴史を紐解くと、「物語」が原因で人々は殺し合い、苦しめ合う。

もうちょっと考察を深めていくと、それぞれの国のナショナリズム、つまり国を国たらしめる独自の歴史や、愛国心に基づく歴史も、物語性があり、これらの「物語」は歴史上、人類を各々の正義と悪に分断し、人々を殺し合う理由に使われ、また、個人の感覚では、苦しみを生み出してきた、と言います。そして、目下「核による人類の自滅」「生態系の破壊」「ITテクノロジーとバイオテクノロジーによるデジタル独裁国家の暗躍や、グローバルでの無用者階級の出現」(この三つ目の危機については、前書、「ホモ・デウス」を参照していただくと理解できます。要するに、巨大化した人工AIは、現在の中国のようなデジタル独裁国家を作り出し、一般の人類は、AIに仕事を奪われ、ほとんどの人は無用な存在になることを意味します。)などの人類に横たわる危機を生み出してはきたが、それらを解決する「物語」は今だ存在していない、と話します。

 

③現代の私たち。

しかし、そのような歴史を描いてきた私たち人類ですが、現在、最も公平で、現実的に有効だと思われ、信じられている自由主義でさえ現在に対処できないとハラリさんは言います。自由主義とは、世俗主義ともいい、真実を探求し、現代科学によるデータに裏付けられた物事を頼りに、思いやりや良心に基づいて行動し、また、人々への平等性を重視し、偏見に満ちた人種差別や不公平な事象には勇気をもって対応し、そして、その責任を自らとる事を大切にした考え方です。その真実を判断基準にするため、物事の正確さを判断するだけの研究や実験する自由を大切にします。この考え方は、今までの「物語」をいったんすべて否定するという過程を得て存在しますが、時代はこの自由主義の考え方でさえ、「自立した合理的個人」という人間の理想が生み出した「概念」であるといいます。その大きな理由は、本当の「真実」を知ろうとする人は少ない、という主張です。人間は、他の人間に比べて、相対的に自分がどの位置にいるか確認しないと幸せや不幸を感じる事が出来ない生き物です。我々が生きる世界は、より大きな「力」を求めよう、得ようとするエネルギーで回っているといっても過言ではありません。そして、「力」を得る立場になればなるほど、(政治家など)「真実」から遠のいてしまう、そして、「真実」を得ようとするならば、「力」を手放さなければならない矛盾の世界に存在しているからだ、という訳です。つまり、いったん「物語」を否定した自由主義でさえ、現代では万能の思考ではないといえそうです。そして、その自由主義でさえ、人間の最高の可能性である「自由意志」という幻想の「物語」であると。

 

④人間の頭は「物語」を求める。しかし、現実は「物語」ではない。

人が社会的な生き物なのは、宗教、国家、貨幣、イデオロギーなど、様々な「物語」を難なく信じてきたが故、この地球上に繁栄する事ができたのは、前書、「サピエンス全史」でも書かれていました。しかし、現代において、信頼に値する「物語」は存在しない、と著者ハラリさんは言います。最終章、「瞑想」の項目で、世界は「物語」ではなく、生きる苦しみからいかに解き放たれるか、これこそが一番大事であると結論付けます。生きる意味を見出そうとするから、「物語」に心を奪われてしまう。その「物語」があるが故、人は苦しみから逃れられないのだ、と。そして、自分の心の奥、「意識」に目を向けよう、と訴えます。瞑想を通して、自分の苦しみの元をたどり、それを観察し、冷静に理解しよう、と。そうすることによって、苦しみを理解でき、苦しみから解放される。少なくとも、既存の「物語」に身をゆだね苦しみを増大させるより、自分を理解し、瞑想を通して自分の身体的感覚、感情と向き合う事で、何が、不快で、何が心地よいか自分というものを理解することが出来る。生きるとは意味を問うものではない。苦しみから解放される事だ。と言います。

 

⑤pepenee的解釈。

このように、人間という矛盾を抱えた存在に対して、著者ハラリさんは「瞑想」を通して自己理解を深めていくことで、苦しみから解放される事こそ大切であると結論付けています。僕も、この理屈には共感できるのですが、すべてのマインドコントロールである「物語」から「自由」になる事は出来ると思います。しかし、もっと根本的なところにある、人間には、自分だけの歴史である”愛情という名のお世話”によって生きる事が出来ている、という大前提が少し希薄ではないかな?と感じました。確かに、すべての「物語」は悲劇を生み出し、この世の問題を解決できずにいます。しかし、大地に種を植え、芽が出たことを夫婦で歓び、雑草を引き、水をやって”お世話”をする事で自分だけの”かけがえのない愛する対象”をつくる。人の個人の生きる意味は、それだけでいいのではないでしょうか。ただ、それは、ユヴァル・ノア・ハラリさんのような大きな「苦悩」を目の前にして、その苦悩から解き放たれる為にどうしたらいいか、などと人生をかけて考えたことのない人の無責任な意見かもしれません。しかし、「瞑想」を通して、自分を知ることの大切さと同時に、”何かを無条件に世話し、愛する事”がこの21lessonsには一項目も見当たらなかったのは、少し寂しく感じました。どの「物語」も信じられない時代である事は事実でしょう。生き残るために、複数の「物語」を保険として信じている人も多い事だと思います。また、IT技術によって、愛する対象を意図的に広告を通して、手軽に商品を消費する時代であり、その事については、僕の”愛する”という定義から外れていると思います。「物語」から自由になりながらも、自分たちだけの”お世話”を通して、かけがえのない”愛”を育むことが出来たなら、それだけで”幸福”になれるのではないでしょうか。

 

今回の21lessonsは、世界的著者の難解な本だったため、ひょっとすると僕の考察や解釈が間違っているかもしれません。もし、この本を手に取ってお読みになった方は、僕の今日のブログの内容に矛盾点が感じられるかもしれません。僕の読解力の無さとして、ご容赦いただきたく思います。

 

このブログでは、精神疾患等に罹った方が幸せに生きるヒントを書いています。これからもどうぞよろしくお願いします。