統合失調症のケアマネジャー

人生の大半をメンタルヘルスに費やしてきた男性の経験談

希死念慮について。

こんにちは。pepeneeです。今日は、統合失調症だけに限らず、他の精神疾患等、また一般に生活をしている方々にも少なからずある希死念慮(死んでしまいたいと願う事。)について僕なりに書いていきたいと思います。また、前回から続けている”統合失調症と付き合いながら働く”にも時系列的につなげてお話ししていきたいと思います。

 

僕の希死念慮は、28歳に統合失調症になってから、幾度も僕の心を蝕んでおり、何度も死んでしまいたい衝動に駆られました。実際、自殺未遂も二回実行しています。心の中では、”なぜ自分が生きているのか””自分なんかが生きていてはいけないのではないか””ただ、死ぬ勇気がない臆病者なのではないか”そんな気持ちに駆られることが少なくありませんでした。一回目の自殺未遂は車を運転している時、とっさに起こりました。顔面に直に迫る急カーブ。その先は見えません。しかし、僕は何を思ったのかそのカーブを右車線(対向車車線)に突っ込んでカーブを曲がったのです。まるで戦時中の神風特攻隊の決死の突撃のように。そのあと、猛烈に反省しました。僕の命がなくなるのは構わないけどもしあの急カーブから対向車がきていたなら他者を事故の巻き添えにしていた。途方もない自己嫌悪に襲われ、恐ろしく自分の無鉄砲さを恥じました。二回目の自殺未遂は過去の記事にも書きましたが、家で引きこもって行政書士の試験勉強をしている生活を二年間続け、二年とも不合格になった後です。これだけ頑張った勉強がまた実らなかった。抗精神病薬を服薬するのを怠っていたこともあり、僕は二階の窓から飛び降り自殺を図りました。不思議なことに下には発泡スチロールの箱が三つ積まれて置いてあり、僕はたまたまその場所に落ちて、軽傷で済みました。

 

やがて、三回目の措置入院でKさんに出会い、心のよりどころを得た僕はKさんの助言に従い、介護福祉士の道へ。そこからは勉学と高齢者様のお世話とその後出会う障害児童達との密度の濃い深い充実した療育体験。気が付くと高齢者福祉3年、児童福祉2年を駆け足の様に突っ走ってきた僕は、その間、あまり死ぬことを考えていませんでした。介護福祉士の実務経験を5年以上満たしたので、その上のステップに行こうと介護支援専門員(ケアマネジャー)の受験を決意し、願書を取り寄せようとしていた頃です。いつもの担当の障害児童との待ち合わせに道路のわきで待っていた僕は、一組のお母さんと3歳くらいの男の子がこちらに歩いて来るのを見つけました。お母さんは抱っこひもを使ってもう一人の幼児を抱えており、すぐ動ける様子にありません。そのときです!3歳くらいの男の子がお母さんから離れ、車が走っている道路に飛び出すように走っていったのです。僕は、その瞬間、”あぶない!”と思い、その三歳くらいの男の子を追っかけて行って道路に出る男の子の前に防波堤の様に立ちふさがりました。目の前には大きなマイクロバスがこちらに走ってきていました。僕が道路に立ちふさがり、男の子が道路に飛び出したのが様子からわかったのでしょう。マイクロバスは僕の5メートル前で減速して止まりました。

 

後から来たお母さんは、”よかった。”と男の子を抱き寄せました。僕は”無事でよかった”とお母さんに話し、その場を離れました。すると、気が付けば僕は泣いていました。なんの涙なのか、僕には今でも分からないのですが一番近い感情としては、”僕は、自分で自分の命を絶つ勇気が無いのではない。大事な何かの為、子供の命の為、自分の命をささげる価値のあることには命を懸ける事の出来る人間なんだ。”という感じが一番しっくりくる涙でした。そして、そのことにとても誇り高い気持ちを持つに至ったのです。

 

児童福祉に2年走り続け、子供の未来、将来の尊さに魅せられていた僕は、この時、子供を救うことを通して、子供に命を救われ、そして、心まで救われた・・・そう思いました。そして、2年間ケアマネジャーの勉強を同時に掛け持った僕は、その年の10月にケアマネジャーの試験を受け、その年の暮れに一通の通知を受け取りました。

 

介護支援専門員実務研修受講試験 合格

 

通知にはそう書かれていました。新しい扉がまたひとつ開いた音が聞こえたのです。それ以来、僕の希死念慮は一度もありません。

 

このブログでは、精神疾患等に罹った方が幸せに生きるヒントを書いています。今後ともどうぞよろしくお願いします。