統合失調症のケアマネジャー

人生の大半をメンタルヘルスに費やしてきた男性の経験談

愛と自由は同時に手に入れられるか。

こんにちは。pepeneeです。今日は、特定の人と愛情を育みつつ、自分のお金や時間を自由にすることが出来るのかどうかについて、考えていきたいと思います。

 

人生の大半のストレスは、意外に身近な伴侶、自分の家族とのお互いのエゴのぶつかり合いから生まれてくる様な気がします。極端な例で、僕なんかは0歳の時から親との愛着関係が支配と暴力からなるとても歪んだ愛着だった為、ある時点で親との関係から抜け出し、自分の人とのかかわり方を見つめなおして、正常な他者とのかかわり方を身に着けなおす過程が必要でした。つまり、この僕のケースでは、まず第一ステップとして家族からの歪んだ愛を断ち切って自由を手に入れなければ一生不幸な人生を歩んでいたと思われます。

 

しかし、人は一人では生きていけません。僕は家庭を離れ、一人暮らしをして主な心のリハビリとして、かかりつけの精神科医にがっつり頼って生きていました。精神科医なら信頼関係を構築するのにうってつけです。こちらの未熟で歪んだ愛着でも、一つ一つ接していく中で愛着を修正していく事が出来ました。

 

愛情を起点とする人の自然の営みは、通常複数の人数が集まるコミュニティーで、各々が少しづつ自分を抑え、相手の話に耳を傾け、また、少しづつ自分の言い分を伝えることで関係性を維持しようとします。愛は双方向のシーソーゲームなのです。(ミスチルの歌ではありませんが(笑))愛情という人間にとって一番大切な基盤が、虐待等重大な地獄である場合や、両親の支配が強すぎる毒親のケースはやはり、一時その環境から身を離して安全な環境を整え、自分の愛着が歪んでいることを自覚するステップが必ず必要になります。ここでは、緊急事態ですので、特定の人物との愛着より、生命の安全の確保という経済的、精神的自由を優先せざるをえません。

 

親は、愛を与える代わりに服従と支配を要求してきます。そして、僕のような極端な例ではなくても、愛着を基盤にしてお互いがお互いを必要としているよくある男女関係、親子関係でも多かれ少なかれ主導権や、経済力の違いによる理不尽、圧力による家事分担の不公平性等完全に平等が担保される愛着関係はないのではないでしょうか。誰かがどこかで我慢している。それが、愛着なくしては生きていけない人間の悩ましいところです。完全な愛は存在しない。また、愛情のない自由は人に喜びをもたらさない。

 

そこで、僕は考えました。自由とは孤独と隣り合わせ。その自由を手に入れることが出来れば、自分の愛着の癖、他者とのかかわり方の歪みを顧みることが出来る。その間は孤独を感じる作業かもしれませんが、そこを頑張って乗り切り、自由の中で経済的にも精神的にも大地に自分の両足で立って、自立を目指すのです。そして、他者とのかかわりを、自分が何かを”与える”ことで関係を構築する様にしてみてはどうか。人間関係のほどんどのストレスは、相手に期待し、相手に失望して相手をコントロールしようとし、それが出来ない事に対する心の不健全なマイナス感情です。つまり、人間関係とはお互いが何かを与え合う事がベストなのです。その男女、親子どちらも経済的、精神的に自立できていないから、愛着にストレスを伴うのです。

 

そう考えると、まず、自由を手に入れ、孤独を知り、他者に与えることを覚える。また、別の人が自由を手に入れざるを得ない環境の人が自由の中で同じように他者との関係性は自分が何かを与える事が必要と悟る。自由の中で、孤独に自分と向き合い、他者に与える事が喜びにまで達することが出来た男女が出会うことで、真の愛と自由を同時に手に入れられた事になるのではないでしょうか。

 

愛を与え合い、お互いの自由を尊重する。素敵ですね。そこには服従と支配は存在しません。(自己犠牲は、それぞれの価値観に左右されますが、僕の経験上、長続きしないのでやはり、やめたほうがいいと思います。自分も幸せに、心地よくなることを許しましょう)

 

このブログでは精神疾患等に罹った方が幸せに生きるヒントを書いています。今後ともどうぞよろしくお願いします。