統合失調症のケアマネジャー

人生の大半をメンタルヘルスに費やしてきた男性の経験談

個人の基本的人権、自由と世界の悪意。

こんにちは。pepeneeです。今日は、少し複雑な、しかし大切な事を本から知ったのでシェアしたいと思います。

 

①真のリベラルとは、社会の公平性が守られる事。

よく、リベラルは社会主義で、昔の中国共産党や、旧ソ連の失敗体制の残党だ、といった印象を持たれる方もいらっしゃると思います。保守派こそ本流であるかのような論調もよく聞かれます。僕は、日本社会の過去(昭和50年以降~)から現在(令和元年)まで日本の社会を体験してきましたが、確かに昔の日本は、社会の共同体がしっかり機能していて、会社も、労働組合の力も強く、また、海外に進出する規制も今より厳しくこの二つの事実から、会社は毎年労働者の賃金を上げざるを得ない状況でした。そして、企業はその目的を達成する為、新しいイノベーションの為、会社に投資し、研究開発、新商品の高付加価値に取り組み、その結果売上高が上がり、社員に賃金として還元されていました。そこには、日本全体で経済成長していこうといった気運があり、また、国境の壁の規制も高く、労働組合も交渉力を経営者側と渡り合えるくらい強いものがありました。これが、日本型経営の右肩成長期の本来の姿です。もちろん、その頃の女性は家庭を守ることと子育て、家事を行うことが当たり前でしたし、家庭の中では多少ブラックボックス化して、父親の家族に対する暴力などは、多かれ少なかれどの家庭にも存在していたかもしれません。この家庭のブラックボックス化によって最悪なケースに陥ったケースが僕の児童虐待という形でしょう。この社会では、個人の自由や人権は社会より下の価値観だった訳です。多少の理不尽や不平等はあるけれど、日本全体で経済成長していこう、みんなで家族の様に経営をしていこう、という雰囲気がありました。しかし、日本のバブルがはじけた頃から日本型経営は解体されていく事になります。この解体に伴って大きく意識が変化したのが、当時リベラルだった基本的人権の保障、個人の自由といった社会や共同体よりも、個人の自由が尊重されるべき、という考え方でした。

 

②今まで、社会やイエの文化に縛られ続けてきた女性、子供、また社会的マイノリティ

ーが声を上げ始めた。

社会の共同体、会社が解体すると、今まで、自分ではなく社会やイエなどの共同体の為に自分を大きく犠牲にしてきたり、自分の権利を社会のせいで踏みにじられてきた方々が一斉に基本的人権や個人の自由を一番の価値に声を上げてきました。そして、その結果社会では構造改革が進行していきます。橋本龍太郎小泉純一郎、第二次安倍政権と個人の自由と経済のグローバル化はイコールとして推し進められてきたわけです。しかし、ここに落とし穴がありました。国営の民営化や、労働者の雇用の自由化、貿易の関税撤廃、日本の企業の海外進出、こうした改革で国民は個人の自由を手にして、自分の人生を主体的に生きれる社会になったと勘違いしてしまっている。その背景には、このような改革の裏で、安く労働者を派遣法で使い捨てたり、海外からの安い人件費で固定費を下げたり、自らが研究開発費を投入しなくても、必要な付加価値や技術を買収してしまえばよい、その結果、労働者は薄給で使い捨てられ、経営者やその株を所有する投資家が儲かるような状況になってしまったのです。個人の自由や基本的人権を旗印に、構造改革の名のもとに、社会を貧困層と富裕層に分けるような改革ばかりがなされてきた。結果、大企業の内部留保はどんどん増加、そして消費は冷え込み、モノやサービスは売れない。売れないから所得は上がらない。しかし、人件費や法人税は下がってもいい法改正や法律が構造改革大義名分のもと行われ、経営者と資本家の懐ばかりが潤っていく社会システムになってしまったのです。しかし、これまで社会、会社、イエ、共同体に対して辛い思いをしてきた国民は構造改革によって基本的人権や個人の自由が保障される社会になると信じて政治家を信託してきたのです。

 

この続きはまた深く書いていきたいと思います。

 

このブログでは、精神疾患等に罹った方が幸せに生きるヒントを書いています。今後ともどうぞよろしくお願いします。