統合失調症のケアマネジャー

人生の大半をメンタルヘルスに費やしてきた男性の経験談

びっくりするほど、多様多彩。

こんにちは。pepeneeです。お久しぶりです。お花見の季節も、少しづつこちらでは葉桜になってきて、今は東北の方に前線がいっているのでしょうか?

 

でも、なんとかお友達とお花見に行ってきました。とても綺麗でした。写真でも桜は見れるのですが、やっぱり直に桜を見れるのは嬉しいものですね。皆さんはいかがお過ごしですか?

 

①今日のテーマ。人の心の中は千差万別である、という事。

あらためて今日のテーマなんですが、本当に日本人1億2千万人いれば、1億2千万通りの心のあり方があるのだな、と最近しみじみ感じます。同じ桜を見ても、綺麗だと思う人がいたり、花が散ると掃除が面倒だな、と感じる人がいたり、また虫が桜の木に這うなあと心配したり、昔の桜の思い出を思い出して、感極まる人がいたり・・・本当に、人間の脳みそってどうなっているんでしょう。最近はダイバーシティ(異なる価値観を認め合う社会)の考え方なども広がってきていますが、日本ではあまり浸透していっていない気もします。子供の頃は、世界はキラキラ光って世界は遊ぶ為、楽しむために存在しているという感情を持っているのかもしれません。何しろ、身の回りのお世話は全部お母さん、お金はお父さんが提供してくれる訳です。子供の仕事は、遊ぶことです。その中で、経験を積んでいって、成熟した心を養っていく訳です。しかし、保育時代のお預かりしていた子供たちも、明らかに趣味嗜好ー皆バラバラだったのを覚えています。小学校低学年の男子は、やっぱりボールを使ってーや外でサッカーをしたりするのが好きでした。女の子は、ドールハウスや着せ替え人形でおままごとするのが好きでした。しかし、中にはやっぱり集団の輪の中に入れず、一人でおもちゃで遊ぶ子も出てきます。そんなとき、職員はやっぱりその子の傍にいって”先生と遊ぼうか”と声をかけるわけです。しかし、その子はやっぱり職員ともコミュニケーションが上手くとれません。まあ、職員である僕に問題があったのも事実ですが(笑)。しかし、そばでその子の一人遊びを見守るだけで、その子は安心して一人遊びを楽しめている感覚はわかりました。

 

②自閉的世界観と、社会所属的世界観。

その子供たちは、集団を形成して、仲良く同じことを共感しあう事で仲良くすることが目的であることがほとんどです。それが社会所属的世界観とここでは僕の造語でしめします。その子供が多数派であることは間違いありません。また、男の子の世界も、誰がその中で頭がいいか、運動能力に長けているか、を無意識に感じ取り、リーダー役や、補佐役、お笑い役、お世話役、など、様々な自分のポジションみたいなものを演じ始めます。そのポジションが自分に向いているかどうかは別として、とりあえず、この集団ではそれが求められていると感じたら、集団からはみ出すことだけは避けなければいけないので、そのポジションをこなします。小学生たちもそこは必至です。しかし、僕の様に、集団に属さない事に苦痛を感じないタイプも確かに一定数存在しているのです。かれらは、いわゆる発達障害や、自閉症スペクトラム障害などの傾向にある子供たちである可能性が高めですが、確かに能力値がバランスよく伸びていくのではなく、ある子どもは読書に没頭したり、トミカなどのプラレールに没頭したり、また、小さい子のお世話をすることに根気強く取り組む子供もいます。彼らは、社会所属といった自己の保身より、自分のやりたい世界観をとにかく追求していきます。少数派ですが、彼らは僕の造語で自閉的世界観と呼びます。キーワードは、没頭です。コミュニケーション能力が多少下手でも、不得意がちょっと多くても、彼らは何らかの才能の種を必ず備えているものです。現在のイーロンマスクや(長者番付で世界一になりました。テスラのトップですね。)アップルの創業者、スティーブ・ジョブズもそういったタイプの様でした。また、過去をさかのぼれば、偉大な事を成し遂げた偉人はみな、この自閉的世界観を持っていたと推察されます。(エジソンアインシュタイン等。)

 

③多彩な世界観が調和するとき。

社会不適合者になりやすい危険性を持つ自閉的世界観の持ち主は、その才能を開花して、結果的に社会をより良い方向に導くような働きをするまでに至ることも多々あります。社会所属的世界観の人々は、心地よい人間関係こそが、生きる目的である訳です。だから、突出した才能や、突出した能力、努力などはもともと必要がない訳です。なんとなく、心地よい人間関係さえ築ければ、仕事などのルーティンや、作業は、その心地よい人間関係に付随するおまけの様なものです。そのおまけで、生活の糧を得るわけです。これは、社会所属的世界観を否定的にみているのではありません。世界は多数派が世論を作り、また、社会とは、多数の保身第一で動いているシステムなわけです。しかし、時にその多数派の社会システムが不具合を起こすことがあります。集団特有のいじめなどはそのよい例です。そういった不具合をテクノロジーや優れた人格で解決するのが、自閉的世界観の人たちです。彼らは、スマートフォンを作り、すべての人が公平に情報にアクセスすることを可能にして、理不尽な職業的下積み時代をショートカットする事に一役買ったり、相対性理論を発表して、世界の新しい捉え方を提供したりすることで、社会の停滞を打破する役割を担ってきました。こうやって、自閉的世界観の持ち主は、一気にある臨界点まで、自分の世界を極めると、社会的に成功する例も少なくないのです。社会所属的世界観も、自閉的世界観も、どちらも大切な存在であり、役割が異なるという訳です。

 

④法律、社会的慣習などの社会システム。

法律などの社会システムは、人々が出来るだけ不正を行わず、みんなにとって心地よい状態を作るかを目的に作られるルールブックの様なものです。そのルールをしっかり守り、今の日本に蔓延している悪しき社会的慣習、男性の育休取れない問題、長時間労働ルッキズム、女性の非正規雇用などの歪んだ社会的慣習もありますが、多くの場合、年上を敬う敬語などは、いずれ、どんな子供や若者であっても年を取る厳然たる現実を考えれば、優れた慣習だと言えるでしょう。

 

⑤社会システムを、少数派も生きやすくするものにする必要がある。

自閉的世界観を持つ何かに没頭するタイプが、結果を出すまでには、時間が必要です。多くの人にとって、人生の目標や、やりたいことは、心地よい人間関係です。だから、自閉的世界観を持つ人々を、ぜひ気長に長い目で見守ってあげて欲しいです。その子たちから、将来のアインシュタインや、スティーブ・ジョブズが生まれてくると思うからです。そして、社会の停滞から救うのは、間違いなく、そちら側の人間なのですから。

 

⑥ひとりひとりは、多様多彩。

社会所属的世界観を持つ人も、自閉的世界観を持つ人も、また細かく趣味嗜好が違います。一人一人が本当に異なる感覚を持っているのです。だから、自分という今までの経験からくる、常識を一度疑う必要が出てきます。どこまで行っても、人と人は完全には理解し合えないのでしょう。しかし、歩み寄る努力は必要だと思います。それは、心地よい人間関係に不可欠ですし、社会を変革する上でも必要です。だから、お互いに理解しようとする歩み寄り、歩み寄りが出来る事を信じあいたい。ダイバーシティとは、そんな理念であるのではないか、そう思うこの頃です。

 

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